2020年10月14日水曜日

映画『ミッドナイトスワン』見てきた話

 「続きを読む」からネタバレあり。今回要旨は二つ
◆公式サイトを見ると「最期の冬、母になりたいと思った。」というコピーの裏に草彅剛さん演じる凪沙の絵があるのだけれどそのキャッチコピーに引っ張られ過ぎてシーンの意味を誤解してしまったのが悔やまれる
◆主役二人はもちろん素晴らしいけれど、二人の周囲に見える「すぐそこにある、ありふれた断絶」が生々しい

予告と上演予定をで絶対見ようと思いながら封切から半月経っての実現と相成りました。予告を見た時に見に行った映画が「ぐらんぶる」だったので見る映画の温度差がありまくり(「ぐらんぶる」も面白かったです。ごちゃごちゃ言わない人向け)




エガちゃんのレビュー見てる途中でネタバレが来たので急いで途中停止した。いつもネタバレ上等で予備知識入れてから行くのにネタバレ見ずに行くのは滅多にない。

映画『ミッドナイトスワン』公式サイト

という事で公式サイトのキャッチコピー、「最期の冬、母になりたいと思った。」
これで私は勝手に「凪沙は元々不治の病を抱えていて余命を知ったうえで一果を引き取るんだなあ」とミスリードしてしまったのだった。なので凪沙がホルモン注射を打ちに行くシーンも女性ホルモン起因の情緒不安定で処方薬を飲みながら「なんであたしばっかり」と泣くシーンも「余命幾許もない身を嘆いているのかな」と解釈し、「泣けば治るから」も「どうせ死ぬんだし」の意味で捉えてしまった。とんでもない誤読である。
お前も女性ホルモン分泌されてるんだろうと言われそうだけれどそこらへんのバイオリズム外れても情緒不安定なので……へへ……

まあ私の誤読があろうとなかろうと凪沙と一果が最初は拒絶し合っていたのにあるきっかけで歩み寄り、家族としての絆を確実にしていくものだと思っていたところから予測されていたはずの突然のクレバスに落ちてしまうところ、最後に再び寄り添うところ、ハニージンジャーポークソテー、トレンチコートとハイヒール、積み上げられた二人の描写は素晴らしかった。

二人だけで世間に背を向けて暮らしているのかというとそうではない。
凪沙の勤め先である「スイートピー」の洋子ママはじめ瑞貴・キャンディ・アキナは時に憎まれ口を叩きながらも寄り添い合っていた。
一果が通うことになるバレエ教室の実花先生は一果の才能を見出し、月謝にも事欠く凪沙に「なんなら免除でも」と申し出、一果が広島に戻ってからも定期的に一果の指導のため訪れていたことが中学卒業後のシーンで示唆されている。
バレエ教室だけでなく同じ学校に通うりんは生育環境の全く違う一果が抱える孤独と空虚に共通項を見出し、時に近づき時に陥れようとしながらも彼女と触れ合う。なお私はこの映画で凪沙と一果以外に心に残った人物をひとり選べと言われたならりんを選ぶ。一果とりんのキスシーンは思春期のふたりが心の距離を最大限に近づけた象徴だと思っている。りんの出てくるシーンには80~90年代に読んだビターエンド少女漫画の香りを感じる。

これが凪沙の故郷である広島に行くとそうはいかない。
一果の母親・早織はシングルマザーで娘を育てるために水商売で飲んだくれては娘を殴り店に迎えに来させたり同じアパートの住人と喧嘩しそうになったのを諫める娘をひどく殴りつけては家で寝ながら謝る、というDV加害者として描かれている。絶対的な悪ではないのだが、彼女は彼女なりに苦労しているし娘を愛しているのに上手に伝えられないし一果に自傷癖があることも見過ごしているまたは気づかない。
早織が迎えに来て広島に戻った後の一果はコンビニでヤンキー寄りの友達とたむろしているし、彼女を迎えに来る親戚の男はヤンキー上がりと思われる柄の悪い男で一果の男友達を殴り飛ばし、ローダウンに改造した軽自動車で向かった凪沙の実家では一果から凪沙を引き剥がし殴りつける。
凪沙の母親・和子は東京で自分の「息子」が背広を着てサラリーマンとしてやっていると信じてきたのに、一果を連れ戻しに帰ってきた「息子」が女装しているのを見て「病院行って治そう」と言い、性別適合手術を受けた凪沙の体を見た後は絶望に泣き崩れる。
無理解な田舎とタグをつけるのは簡単だろう。だがLGBTではなくとも田舎の社会で異端とみなされるものが自分を主張しようとした時に起こるであろうと予測され、おそらく私が目にしていないだけでどこかで実際起こっているかもしれない光景だ。その場所で斯くあるべき姿が求められ、そこから外れたものは弾かれる。早織が手術後の凪沙の体を見て「化け物!」と叫ぶ姿や和子の号泣する姿がその象徴だ。

東京にいたところで全員に理解があるわけではない。
「スイートピー」に来る客は意識的または無意識的に凪沙たちのことを差別しているし、凪沙が一念発起して昼間の職に就こうとした時の面接官は二人いるうち女性の方は理解がありそうな様子だったものの男性の方はあからさまに理解しているポーズだけを見せて女性の面接官にたしなめられても自分のアプローチが誤っていることには気づかない。

生きたいように生きる、というのはなんていうきれいな言葉なんだろう。実行できる人はほんの一握り、いや一つまみほどしかいないのに。

たとえば凪沙の同僚である瑞貴は客に惚れて凪沙たちに借金してまで貢ぎ、風俗に「落ち」た挙句に凪沙に乱暴しようとした客を殴って大怪我をさせてしまう。
早織にしても凪沙を追い返して一果を手元に置くことはできたものの卒業式が終わった後で「こういう場は苦手」とこぼしたところから見ると彼女自身も「水商売のシングルマザー」という田舎においての異端である息苦しさからは抜け出せていない。もしかすると凪沙に向かって叫んだ「化け物!」という罵倒は今まで早織が受けてきた傷そのものだったかもしれない。
りんの母親・真祐美はアメリカ留学までしたのにバレリーナになれなかった夢を娘であるりんに投影する。やがてりんが足底腱断裂で踊れなくなると「この子からバレエを取ったら何も残らなくなる」と医師の前で身も世もなく号泣し、隣でりんが無感動に虚空を見つめていることには気づけない。
みんな心に孤独と虚無を抱えて生きている。

広島から一果を連れ戻せなかった凪沙も恐らく虚無に絡め取られてしまったのだろう。適合手術後のアフターケアを恐らくセルフネグレクトから怠った結果予後不良となり寝たきりで日常生活さえおぼつかなくなる。金魚のいなくなった濁った水槽に餌をやり、一果についてきてもらった海でかつてこうなりたかったであろうスクール水着の女児や白鳥の幻を見る。

最期に斯くあれかしの幻を見て死んでいった凪沙とりん。りんの喪失(死んだかどうかはリアルタイムでわからなかっただろうけれどレッスンにりんが来なかったこととコンクール当日の不可解な電話の切り方で予兆はあっただろう)は一果からオデットを奪い、凪沙の死はニューヨークで一果にオデットを踊らせた。二人とも一果を置いて幸せな幻を見たまま逝ってしまった。

そして一果は凪沙の死を見届けて海に入ってしまう。

ニューヨークのコンクールに向かう途中、一果の後姿は結ばない長い髪とトレンチコートと赤いハイヒール。歩く姿はどうしようもなく凪沙を連想させる。控室の鏡前に置いた羽冠は凪沙からもらったものなのだろう。
スタッフロールが終わった後、あの薄暗いアパートに凪沙が椅子に座って煙草をふかし、その後ろでオデットを踊る一果のスチルが映って映画は終わる。一果が本当にアメリカで念願のオデットを踊れたのか、もしかすると凪沙の後を追った一果が死出の旅路で見た幻なのか。一果の入水は胸の下くらいまで海に浸かったところで切れてニューヨークに繋がるため映画を一度見ただけではわからない。もしかしたら内田監督が書いた小説文庫本にはもっと詳細な補完があるのかもしれないけれど未入手なので現時点ではわからないままだ。
できることなら一果は生きていてニューヨークで美しい白鳥になっているといいなと思う。ただ単に私がバッドエンドに耐えられないからだということもあるのだが、自分が生きたいように生きられなかった人たちがほとんどのこの物語の中で、せめて一果は軽やかなステップで踊っていてほしいという微かな希望がないと、人は簡単に転がり落ちてしまうからだ。


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